「座り込み」の話。

誰かを深く傷つけるかもしれないという想像力のなさというよりも、ある問題に対して「自分は深く学ばなくとも、直感や生まれ持ったセンスで切り口鋭い言及ができる」という思い込みがおぞましいと思う。

もっと勉強しろとか、学ばなければ発言権はない、という話ではない。

かくいう自分も沖縄の問題に詳しいわけではない。
東京にいた頃、三上智恵監督の映画【標的の村】【戦場ぬ止み】を観て、問題の根深さであったり政府対応の卑劣さ、現地の人々の分断や闘争の日々を知った。でも、その程度。常日頃から基地問題について考えているわけではないけれど、秋田だってイージスアショアが作られようとしていたこともあり決して他人事ではないと思う。

回りくどい言い方になるが、「思慮深くあるということよりセンスで発言することの方が尊い」わけがないと思う。

気が利いている(かのように見える)ちょっとした思いつきの言葉なんて、ふつう見向きもされない。Twitterという世界が異常なのだ。その世界に長居してしまうと、ついつい忘れがちだけれども。「ばかだと思われるから躊躇って言わないこと」を平然と言う人間は、本来ならば相手にするに値しない。

テーブルにつけるのは、対話が可能な人間同士であるべきで「自分は発言しますが、相手のことなどは興味ないし今後理解する予定もございません」なら、居なくていい。でも、SNS(Twitter)はそれを可能にしてしまっている。トンデモない発言や差別発言も、字面では「一理あるね」なんて感じに見えてしまう。影響力のある誰かの発言なら一層その傾向があるように思う。みんながインプレッションを求めてリプに群がれば(相手にしてしまえば)、賛同だろうが批判だろうが元のツイートはどんどん「一意見」として確立されたもののようにみえる。いかに滅茶苦茶なツイートでも。そもそもリプライというのも、フォロワーやインプレッションを増やしたい目的だったりする(影響力のある人物に絡むことが表示回数やイイネを増やす常套手段、らしい。Twitterは個人をミニ電通にしたのか、なんてことはきっと皆うすうす思っているはず。思ってないか)から、なんだか虚しい。「意見が、実はどこにもない」という状態すら起こり得るのかもしれないと書いていて思った。

「座り込み」のつぶやきであったり、メンタリストの「医療費削減」のつぶやきも、ふつう相手にされない。
ふつうというか、ツイッター以前というか。
だって本当に「つぶやいて」ろって話だ。壁とか電柱に。
そして、本当に何らかの「意見」を発したいのであれば、発するだけの態度を持つべきだ。
「わかるものか、と思っている相手にわからせようとすることほど無駄なものはない」とは哲学者の池田晶子さんの言葉で、まさにその通りだと思う。

炎上だとか、いわゆる「バズる」目的なのはあきらかで、それ自体は別に悪いことではないと思う。
宣伝目的でバズりたいとか、承認欲求を満たしたいという気持ちは誰にでもある。
でも、こういう時に、この件にコメントすること自体が話題づくりへの加担になる(だから言及しないことが最善である)という話になりがちで、それはちょっとまずいと思う。前は自分もそう考えていた。けれど、声を上げなければ上げないで向こうの利益になるような気もする。ひどい差別だとか偏見を目にした時、「沈黙」が賢いふるまいであるというのは、やっぱりだめなんじゃないかと思うようになった。

要するに、
相手をするに値しない人物を、相手にしていかなくてはいけない。


きつい世の中になったと思う。


思うけれど、それでも地道に社会問題を学ぶ人や活動を続けている人の輪に加わり、少しでも力になれるように努力していきたい。
間違っても「学ばなくても自分はわかる」なんて態度にはならないように。

お誕生日だったシルベスター

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