映画上映について 2
前回は映画上映企画に至った経緯について書きました。
今回は、三上監督の過去作について書いていこうと思います。
【標的の村】
https://tofoofilms.co.jp/catalog/catalog-559/
日本にあるアメリカ軍基地・専用施設の74%が密集する沖縄。5年前、新型輸送機「オスプレイ」着陸帯建設に反対し座り込んだ東村・高江の住民を国は「通行妨害」で訴えた。
2012年9月29日、オスプレイ強硬配備前夜。台風17号の暴風雨の中、人々はアメリカ軍普天間基地ゲートに座り込み、22時間にわたってこれを完全封鎖した。
この全国ニュースから黙殺された前代未聞の出来事の一部始終を地元テレビ局・琉球朝日放送の報道クルーたちが記録していた。
復帰後40年経ってなお切りひろげられる沖縄の傷。沖縄の人々は一体誰と戦っているのか。奪われた土地と海と空と引き換えに、私たち日本人は何を欲しているのか?
(公式HPから引用)
初めに驚いたのは、使われている映像が全国ニュースでほぼ観たことのないものだったこと。
上記あらすじにあるとおり、まさに「黙殺された」ニュースや出来事がこの映画のなかでは克明に描かれています。
そして、この映画が圧倒的な監督及びスタッフの主観で撮られていることにもびっくりしました。
大手メディアのニュースは公平中立・両論併記を建前としています。個人的な意見ですが、これらはどこまでも「建前」。たとえば答えをはぐらかすような、というより「答えていない」と言った方が正しいくらいチグハグな首相の答弁があっても、まるで理路整然と話しているかのように切り取って編集し、野党議員の答弁と同じ秒数使って放送することがあります。これは公平な放送であり、両論併記なのでしょうか? また、「メディア自体の責任が問われるニュース」(ジャニーズ性加害報道、放送法の問題など)についてもそのまま事実を流すだけでいいのでしょうか? そもそも、広告主の存在するメディアに公平・中立な報道は可能なのでしょうか?
そんなメディアの状況に対し、この映画はどこまでも主観。
撮り方や音楽の演出もそうですが、監督自身がナレーションも兼ねていることでより一層憤りが伝わってきます。
徹底して住民側の視点で映画は進みます。それはまるで、この問題に関しては「両論併記なんてありえない」と訴えているようです。
人権も財産権も奪われた人たちが沖縄にいる。ここではまだ戦争が終わっていないと話す人もいる。
民主的な手続きでどれだけ反対の意志を示しても、結局はオスプレイ配備が強行される。
墜落の恐怖にさらされ、騒音に悩まされ、訓練の標的として扱われる。
「お父さんとお母さんが(反対運動に)疲れてしまったら、次は私が代わってあげたい」と話す11歳の子供がいる。
……これらの光景を見て、「どう思うか」とか(映画の鑑賞についてよく言われるような)「自由に解釈してください」ではなく、「怒りを覚えませんか」と訴えかけられているように感じます。
また、映画のなかでゾッとしたのは、警察が住民の排除をする際に「ついで」のように報道のレポーターまでも排除され、さらに現場に駆け付けた弁護士の方まで排除されているシーン。それから、抗議運動をする住民の頭上、クレーンが資材を運んでいくシーン。もちろん住民はヘルメットなど被っていません。
いざとなったら国は何でもやる。そのときには民主主義や知る権利、国民主権が「建前」になる……というのがはっきりと伝わるシーンでした。
誰もが他人事ではいられません。
これはこの国に住むすべての人たちの問題だと私は思います。


